あんたはいつもそうやって、この小さな手を引いてった。
 ろくに見上げやしなかったから、顔なんて殆ど覚えちゃいない。
 ただ一寸皺のある指の太さとか、爪の色なんて、そんなものだけずっと、後生大事に憶えていたりする。



 記憶を辿り始めれば、あれは何年前のことだったか。
 ショウウィンドウの中は冬景色だったから、多分秋だ。
 石畳の冷たさに関してはもう忘れた。
 ひもじさも切なさも、もう忘れた。
 お国の言葉なんぞ知らん。
 いいもんはなんも持っとらん。
 右も左も、みんな似たようなものだったから、不幸だなんて思ったこともない。
 空の色は遠過ぎて、人々は通り過ぎて。歩道の端が唯一の寝床。
 その、乾いた石の上に、ぱたりと手袋が落ちた。
 白い、五本の指を象った布。
「済まない。少し手伝ってくれるだろうか」
 更に上から降ってきた、涼やかな声。
 あぁやっぱり、あんたの顔は覚えていない。
 手袋と一緒に落ちてきた黒い塊は重くて。
 痺れる腕の痛みと、飛び立った鳥達の羽音は、けれども覚えているのだった。



 男は自分を軍の者だと名乗った。
 と言っても、それは手袋とコートについていた紋章から解ったことで、男の言葉は全く理解できなかったが。
 人に撃たせておきながらさっさと銃を取り上げると、コートの内側へとそれをしまった素早さは、まあ褒められたものだっただろう。
 なにしろあそこは、軍人も餌になる場所だから。
 今思えば、そんな界隈に軍服で入り込んでいるくらいの変わり者が、浮浪者を一人連れ帰った所でおかしな事はない。
 だが、当時の自分にとってそれは、全く予想などつかない一大事だった。
 瞬く間に立ち上がらされ、放り込まれた車のシート。
 表面に敷かれた柔らかな毛並み。
 暖かな車内の空気。
 上品な白手袋の運転手。
 気付けば寝床は愚か、あの町並みは後方へと流れて行き、見たこともない舗装道路の上を車は走っていた。



 連れて来られた屋敷には、年老いた男と女が一人ずつ。執事と家政婦なんて仕事を知っているはずもなく、家族なのだろうと思っていた。
 彼らの顔は良く覚えている。
 言葉を教えてくれた白髪の男。いつも目元が笑っていて、それは多分目尻が垂れていたからだ。
 料理を教わった、痩身の女。長い髪を背中に垂らしていて、時々花の髪留めをしていた。
 事ある毎にこちらの顔を覗き込み、解ったかと確認をするものだから、文字を書くことよりも、スープの為に野菜を切ることよりも早く、その顔立ちを覚えてしまった。
 与えられた部屋は暖かく、床でさえ居心地が良かった。だから始めは、ベッドというものを知らないまま、そこで良く眠っていた。
 男が家に居ることは少なく、けれども二人は十分に優しかったので、特に気にすることもない。
 時々帰ってきた相手に拙い言葉で話しかければ、あの大きな手で頭をぐしゃぐしゃと撫で回される。
 そんな日が続いていた。
 余りにも、余りにもそれまでとは違う、極上の日々。
 それはいつしか、石畳の感触を忘れさせ、本を読むことを覚えさせ、道端の浮浪者を一人の人間へと変えていったのだった。



 半年も経つころになると、町へ一人で出かけて買い物ができるようになった。
 初めて買ったのは古本が一冊。林檎と炭酸水。
 男の住む屋敷の周りは、石畳に誰も座っていない。
 雪の積もった地面で誰かが死んでいることもなかった。
 家に帰り、着替えて、暖かい食事をする。夜はベッドで、枕を抱えて眠る。そういうことにも慣れた。
 ただ時々、隣の国から飛行機や戦車がやってきて、兵隊と爆弾を落としていくことがあったけれども。
 もしかすると石畳に住んでいた人間は、みんな死んでしまったんだろうか。
 そうだとしても別に変わりはないけれど。
 あんたがいればそれで良い。
 そう思うくらいには、男のことが好きだった。
 覚えた料理の数も増えて、偶には四人分の夕飯を作ることもある。
 勿論覚えたことはそれだけじゃない。
 銃の使い方なんて、前から知っていたけれど、それが男の役に立つ場所にも連れて行って貰えるようになっていた。
 小さな身体を見下ろして、みんなは心配そうにしたけれどそれも始めだけ。
 あの男の周りにいる人たちはたぶん、物事に慣れるのが早いのだろう。
 なにしろ変わり者だから。



「すぐに支度をして、居間へ来なさい」
「何?」
「空襲だ」
 放り投げられた銃を受け取り、腰のベルトに挟む。
 椅子の背に引っ掛けたジャケットを羽織れば準備は終わり。持っていく財産もない。
「あ」
 思い出して、本を一冊だけポケットへしまった。空襲なら、運が悪ければこの家も焼けてしまうだろう。
 近頃、この町は戦争の真っ只中で、そういえば先程から耳慣れたサイレンが鳴り響いている。
 解き掛けのテキストが机上に広げられたままだったが、丁度良い言い訳とばかりにそのままにしておくことにする。
 階段を駆け下り、居間に入ると地下シェルタの蓋が開いていた。暗がりから生えた皺のある手が、早く、と手招いている。
「急いで」
「うん」
 彼女の声に急かされながら階段を下り、取っ手を引いたところで襲撃が始まった。狭い空間に四人は窮屈だけれども仕方がない。
「収まったら軍部へ行く。家のことは頼んだよ」
「ええ。お気をつけて、旦那様」
 ひそひそと交わされる会話の横で、天井に目を向けながら爆弾の音を聞いている。
「…一緒に」
「ああ、おいで」
 伸びてきた手が指先を取り上げて、強く握った。
 硬い掌。
「役に立つよ」
「良く知っている」
 その手を握り返すと、まだこちらの方がずっと小さくて。
 こんな事がある度いつも、最初の日を思い出す。
「じゃあもっと役に立つ」
「期待しておこう…収まったかな」
 一際大きく地面が揺れて、それから暫く静かになった。
 隣では老夫婦がキッチンの戸棚を心配している。
 空爆というのは割りと長閑だ。
「出ようか」
「もう少し待とう」
 同じように天井を見上げているらしく、声は跳ね返ってから降って来る。
 本当の暗闇というのは、目が慣れるということがない。
 確かなのはそこに、あの屋敷の四人がいて、そのうち二人は手を握っているということだけ。
 それだけあれば十分な情報だと思う。
「収まったようだ。出るぞ」
「うん」
 シェルタの蓋を開くと、外の明かりが目に眩しい。
 どうやら、食器棚は無事でありそうだった。



 重い軍靴が走る間を、軽い運動靴で駆け抜ける。土を蹴って飛び上がれば、誰よりも早く先頭に追いついた。
 手の中の銃は少し重たい。
 黒いその口径を下へ向けながら、先ずはとにかく走った。 敵に追いつかなければ、或いは逃げ切らなければ、どちらにせよ良いことはない。
「無茶をするな」
「してないよ」
 小声で話す相手は、自分よりもずっと重い銃を構えている。
「程々にしておけよ」
 微かに、男は笑ったようで、ちらりと見上げた先は、けれども既に後姿だった。
 声でしか、男を判別することはできない。
 右も左も、みんな同じ軍服を着ていて、その同じ色の人間は撃ってはいけないと教わっていた。
 彼らは「仲間」だから。
 だから、その時も撃たなかった。
 後ろから追いついてきた、黒いジャケットの男が、銃口を前に向け、引き金を引く。
 前よりは見慣れた後姿が、突然動きを止めて、倒れた。
「貴様っ!」
 銃を放った男を、別の男が撃つ。
 その男を、別の男が撃つ。
 みんな同じ服を着ていて、どれを撃てばいいか判らない。
 走るのをやめて見下ろした先、倒れた男の体の下からは、赤い血溜まりが地面に広がっていた。
途方に呉れたまま、ぼんやりとそれを見ていた。



 黒い棺の内側で、男はひどく小さく見えた。いつもの軍服より少し上等な、綺麗な服を着ている。
 尖った鍔の帽子が、びっくりするくらい似合っていない。
 あんた、こんな顔をしてたっけ。
 閉じた瞼の内側、そこにある筈の瞳の色さえ、まだ覚えていないというのに。
「変な顔」
 膝を折って顔を近付ける。
 隣でまた、家政婦が泣き始めた。
「泣くなよ」
 呟いて見上げる。ああ、可哀想に目を腫らした、この顔はよく知っているけれど。
「大丈夫だよ。これ、違う人だ」
 瞬いて彼女は首を振る。
「違う人だ」
 言い張って立ち上がり、棺を離れた。
 白い手袋は軍服のそれで、誰だって持っている。後ろに控えているエライ男だって、同じものをはめている。
 そう、あれはあんたの手じゃない。
 記憶にあるあの手じゃない。
 そう思うから、だから、手袋を外さなかった。
 違う人だと思いたかった。
「…ふ、ぅ」
 じんわりと頬が濡れる。
「ぅああ…」
 あの手はもうないのだ。
 もうどこにもないのだ。
「うわああぁっ」
 抱きしめる彼女の胸にしがみつきながら、生まれて初めて、悲しくて泣いた。



 頭を撫でてくれる大きな手は、やっぱり、どこにもないのだった。