-Fabel  03-


 肩を揺らす手に顔を上げると、前の席の椅子を逆向きにして彼女が僕を覗き込んでいた。
 教室にはもう人気がない。
 「授業、終わったよ」
 「ん…ごめん、ありがとう」
 久しぶりの授業はやはり退屈だった。案の定と言うべきか、知らない間に寝ていたらしい。
 欠伸をしながら教科書を片付ける。彼女は頬杖をついて僕を待っている。
 後はもう帰るだけだ。窓の外では日が傾いて茜の色に硝子を染めていた。
 「まだしてるんだね、それ。前もそれ、してたよ?」
 リップクリームを塗り直しながら、彼女は僕の腕を指差した。黒いアナログのリストウォッチは、彼女に理解出来ない価値を持っている。
 「好きなんだ」
 「時計なんて、とっくに意味がないのに」
 「君がくれた時計だからね」
 打ち明けると彼女は少し黙って、目元を赤くしながら囁いた。
 「それっていつ?」
 「僕らが同じ大学に行った頃」
 「私受かるの?」
 「勉強しなよ」
 唇を尖らせる彼女を見ながら、僕はそこに似合う赤を想像した。
 二人が黙ると、教室に僕の時計だけが響く。
 「図書館に行く?勉強、見てあげても良いけど」
 「行く」
 まだ素直な彼女を連れて、僕は昇降口へ向かった。
 これくらい素直なら、週末の喧嘩もなかっただろうに。
 「ねぇ、帰りにアイス食べない?暑い」
 階段を降りながら、不意に振り向いた彼女が言う。
 もう既に真っ直ぐ図書館へ行って勉強する気はなくなったらしい。
 そういえば、移り気なところは昔からだった。
 そのうち、黒い時計を持っていない僕と、彼女は会うかもしれないな、と思いながら答える。
 「良いよ。何が好き?」
 「ミントチョコレート!」
 案の定な選択に頷いて、左手の時計をちらりと見遣った。
 何しろこれは、僕らの合格祝いなのだから。